憲法、憲法判例、憲法学習法

平成20年度司法書士試験憲法

平成20年度司法書士試験 憲法

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問題1

 
次のA説からC説までは、生存権(憲法25条第1項)の法的性格に関する見解である。次のアからオまでの記述のうち、誤っているものの組合わせは、後記1から5までのどれか。
A説: 憲法第25条第1項は、国会に対してそこに規定された理念を実現するための政策的方針ないし政治的責務を定めたにとどまり、およそ法的な権利や裁判規範性を認めるものではない。
B説: 憲法第25条第1項は、これを具体化する法律の存在を前提として、当該法律に基づく訴訟において同条違反を主張することができ、その限りで法的権利を認めるものといえる。
C説: 憲法第25条第1項は、それ自体で裁判の基準となるのに十分に具体的な規定であり、その意味で直接国民に対し具体的権利を認めたものである。

ア 憲法第25条第1項が生存権保障の方法や手続を具体的に定めていないこと、資本主義体制のものでは自助の原則が妥当するということは、A説の根拠となり得る。
イ 「憲法第25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるのかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用とみざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄である。」との見解は、A説の立場に立ったものである。
ウ ある者が、生存権を補償する立法がなされないため生存権が侵害されていると考える場合、B説及びC説のいずれの説によっても、憲法第25条第1項を直接の根拠として国の不作為の違憲性を裁判で争うことができる。
エ 生活保護に関する法律の下で何らかの給付を受けている者が、当該法律の規定では、自己の生存権の保障として不十分であり、生存権が侵害されていると考える場合、B説及びC説のいずれの説によっても、憲法第25条第1項を根拠に当該法律の規定の違憲性を裁判で争うことができる。
オ C説の立場に立っても、生存権の保障する具体的な立法がなされない場合に、憲法第25条第1項を根拠として国に対して生活扶助費の給付を求めることまではできないとする結論を導くことが可能である。

1 アエ  2 アオ  3 イウ  4 イオ  5 ウエ

解説

生存権の法的性格に関する学説問題です。
基本的な論点ですので、憲法を普通に勉強していた方にとっては、易しかったと思います。

ただ、この論点を勉強していなかった方にとっても、このような問題は国語の読解問題として解けるのでむしろ取り組みやすいと思います。そこで、ここでは、いかに最小限の知識で、最短でこの問題を解くか、考えて見ましょう。

まず、A説からC説までざっと眺めましょう。

わかっている人は、これが、プログラム規定説、抽象的権利説、具体的権利説であることは一目瞭然だったわけです。

しかし、たとえ、その知識がなかったとしても、
A説は、「理念を実現する…政策的方針、政治的責務」「法的な権利や裁判規範性を認めるものではない」
B説は、「具体化する法律の存在を前提」「当該法律に基づく訴訟において同条違反を主張でき」
C説は、「裁判の基準となるのに十分に具体的な規定」
と書いてあり、非常に要領よく各説をまとめてあります。

そこで、アを検討します。

どこから検討してもいいのですが、あまり長くない肢から検討するのがセオリーではありますね。

アは、25条1項が、生存権保障の方法や手続を具体的に定めていないこと、資本主義体制では、まずは自助の原則が妥当することが、A説の根拠になるといっています。

この点、権利として謳われていても、それをどのように実現するかが決められていなければ、絵に描いた餅であることは、すぐにわかると思います。それに、自助というのは、まずは何よりも、自分の生活分は自分で稼ぐということですから、稼がない人が当然に要求する権利がない、という発想につながりますね。そこで、この生存権の規定は、法的な権利や裁判規範性を認めるものではない、というA説の根拠となっているわけです。

そこで、アは正しく、すると、アが含まれている選択肢1(アエ)と2(アオ)は、排除できます。

そこで、イウ、イオ、ウエ、の三つから選ぶことになりますが、

ここでは、順番どおりイを選ぶとしましょう。このイが問題になるであろうことは、判例の学習をしていた人にはすぐにわかったかもしれませんね。

イ 「憲法第25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるのかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用とみざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄である。」との見解は、A説の立場に立ったものである。

イで述べられているのは、堀木訴訟における最高裁判例の立場です。この堀木訴訟については、裁量の逸脱・濫用の場合の司法審査の可能性を認めており、純粋なプログラム規定説をとっていないと言われています。むしろ通説は、これを抽象的権利説と理解するわけです。そこで、表現としても、立法府の広い立法裁量を認める、という方向になっているわけです。

ついでに言えば、朝日訴訟は、立法裁量の問題ではなく行政裁量の問題ですので、ここでは関係ないのですが、傍論で、見解Aとほぼ同様のプログラム規定説を展開し、その上で、厚生大臣の広範な裁量を認める立場に立ちつつ、裁量権の濫用がないか検討しており、これについても、純粋なプログラム規定説ではないという解釈も可能です。

もちろん、裁量権の濫用が認められること自体、ほとんど想定できず、朝日訴訟、堀木訴訟ともにプログラム規定説ととる立場も存在します(たとえば、浦部法穂「憲法学教室」日本評論社)。

ここは論者が何を重視して、判例を判断しているかを考えないといけない場面ですね。判例を単純化して覚えていると、かえって間違えることがありうる例なわけです。

ただし、判例の知識がなくても、ここでは、「」内の見解が、プログラム規定説であるか否かを聞いているのではなく、Aの見解から導き出されるかを聞いています。

Aの見解では、およそ裁判規範性を認めないといっているわけですから、立法府の裁量が、著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用とみざるをえないような場合であれば、裁判所が審査判断できる可能性を残した肢イの見解は、Aからは導き出されません。

これで、イウかイオが解答であろうという推定ができますね。なぜか?

もし、ウエが答えであるとすれば、謝った選択肢は、イウエになります。すると、イウとウエの両方ともに、誤った選択肢の組み合わせになってしまい、答えが二つあることになってしまうわけです。

ですから、ウエが答えである可能性は排除できます。

そこで、ウとオのどちらかが誤りであるか判断すればよいということになります。

さて、では、ウです。

ウ ある者が、生存権を補償する立法がなされないため生存権が侵害されていると考える場合、B説及びC説のいずれの説によっても、憲法第25条第1項を直接の根拠として国の不作為の違憲性を裁判で争うことができる。

憲法を直接の根拠として、裁判で争えるとあります。
これは、明らかにB説とは異なります。なぜか?B説は、「具体化する法律の存在を前提」「当該法律に基づく訴訟において同条違反を主張でき」と言っています。

当該法律に基づく訴訟において、はじめて、憲法25条違反を主張できるのですね。

これは、ごく簡単な論理矛盾です。

すると、ウが異なっていることは明白ですので、イウが誤りの組み合わせ、よって、解答は3になります。

つまり、この問題は、アイウ三つの肢を検討すれば答えがでるようになっており、非常に楽な構造をしていたわけですね。

ついでに、他の肢も検討しておきましょう。

エ 生活保護に関する法律の下で何らかの給付を受けている者が、当該法律の規定では、自己の生存権の保障として不十分であり、生存権が侵害されていると考える場合、B説及びC説のいずれの説によっても、憲法第25条第1項を根拠に当該法律の規定の違憲性を裁判で争うことができる。

C説によれば、もちろん、憲法25条第1項を根拠に、法律の違憲性を争えることには問題がありません。

B説も、法律が存在している以上、その法律に基づく訴訟において、憲法25条違反を主張できると言っているわけですから、ここも、正しいわけです。

と言ってしまってから、少しややこしいことを付け加えます。ここでのB説のような抽象的権利説の理解の仕方が、必ずしも一般的なわけではありません。

芦部先生などは、生存権が立法によって具体化されている場合には、憲法と法律を一体として捉え、生存権の具体的権利性を論ずることも許されるって、と言ってます。微妙な言い方をしているわけです。

ただし、佐藤功先生などは、はっきり、法律の規定に基いた行政の措置に対して、違憲性を問題にしうるんだと言っています。長谷部先生なんかも、立法がある限り、その立法の憲法25条適合性を問題にできるって言います。確かに、抽象的権利説について、そのように断言する先生もいることは間違いないんですけど、現在、それが本当に通説かというのは疑問があるわけです。むしろ、最大公約数的には、立法がある限りで、それは具体的な憲法上の権利として認められる、というに止まると考えられるわけです。

ですが、本問題は、抽象的権利説とは何ですか?と尋ねているのではなく、あくまでも、B説として与えられた見解からは、どうなるか?と尋ねているわけですね。

このように、見解問題は、自分の知識だけに頼らず、必ず素直に問題を読んで、そこでの見解にしたがって判断すること。ああ、これはプログラム規定説だ、抽象的権利説だ、と思った瞬間に、問題文を読むのをストップしたりしないように気をつけてくださいね。

なお、ここでのB説は、
「抽象的だった権利が、法律ができることで具体的なものとなり、争うことができる。ひとたび具体的になった以上、その具体化の仕方(=法律の規定)についても争える」と捉えておくことをお勧めしておきます。

次にオです。

オ C説の立場に立っても、生存権の保障する具体的な立法がなされない場合に、憲法第25条第1項を根拠として国に対して生活扶助費の給付を求めることまではできないとする結論を導くことが可能である。

オは、非常にニュートラルな書き方をしていますから、わかりやすいです。

学説としては、可能というよりも、むしろ、生活扶助費の給付を直接請求できないとする立場が通常です。これを知っていれば、この選択肢は瞬殺です。

しかし、学説の内容を知らなくても、C説は、裁判の基準となるのに十分という意味で、直接、具体的権利を認めたと言っているわけですから、そこから、’’必ず’’給付の直接請求ができるという意味になるとは限らないことは、わかると思います。

さて、本問は微妙なところもあるのですが、最初から解いていく分にはかなり易しく、この程度の出題であれば、特に憲法を勉強しなくても、国語の読解力さえ磨いておけば十分というところでしょう。もちろん、論点の知識があると、問題になりやすいところが見えて、より楽ですけれど。

逆に言えば、この問題は多くの受験生が確実に取ってくるでしょうから、落とせないところでもありますね。


問題2

裁判の公開(憲法82条)に関する次のアからオまでの記述のうち、判例の趣旨に照らし誤っているものの組合せは、後記1から5までのうちどれか。

ア 政治犯罪、出版に関する犯罪又は憲法第3章で保障する国民の権利が問題となっている事件の対審及び判決は、常に公開しなければならない。
イ 憲法第82条は、裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障するが、各人が裁判所に対して傍聴することを権利として要求できることまでを認めたものではないことはもとより、傍聴人に対して法廷でメモを取ることを権利として保障しているものでもない。
ウ 家事審判法に基づく遺産分割審判は、相続権、相続財産等の存在を前提としてされるものであるから、公開法廷で行わなくても憲法に違反しないが、この前提事項に関する判断を審判手続において行うことは、憲法に違反する。
エ 家事審判法に基づく夫婦同居の審判は、夫婦同居の義務等の実体的権利義務自体を確定する趣旨のものではなく、これら実体的権利義務の存することを前提として、同居の時期、場所、態様等について具体的内容を定め、また必要に応じてこれに基づき給付を命ずる処分であると解されるから、公開法廷で行わなくても憲法に違反しない。
オ 刑事確定記録の閲覧は、表現の自由等を定めた憲法第21条によっては必ずしも国民の権利として保障されているものではないが、憲法第82条によって国民の権利として保障されたものであるから、これを制限する旨の法の規定は憲法に違反する。

1 アイ  2 アエ  3 イオ  4 ウエ  5 ウオ


解説

まずはアから検討しましょう。

ア 政治犯罪、出版に関する犯罪又は憲法第3章で保障する国民の権利が問題となっている事件の対審及び判決は、常に公開しなければならない。

これは、条文そのままですね。82条2項ただし書です。82条は、1項で対審と判決が公開で行われなければならないとします。そして、2項はその例外を定め、さらに但し書が、例外の例外を定め、常に公開しなければならない場合を規定しているわけですね。

次にイを検討します。

イ 憲法第82条は、裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障するが、各人が裁判所に対して傍聴することを権利として要求できることまでを認めたものではないことはもとより、傍聴人に対して法廷でメモを取ることを権利として保障しているものでもない。

これは、レペタ事件ですね。有名判決ですので、知っていれば瞬殺。もちろん、正しい。もし知らなければやや苦しいかもしれません。

裁判の公開というのは、個人に対して認められた権利ではないというわけです。そうではなく、制度を保障したものだというのですね。

実は、このアとイが正しいことを見分けた時点で、選択肢の1から3は切れます。残りは、ウエとウオですから、エとオのどちらか違っているほうを見分ければ終わり。

ですが、アについては、条文を読んでいなければ手も足も出ません。イについては、判例を知っているか、せめて、制度的保障という考え方になじみがあればよいのですが、そうでなければ厳しいと思われます。

今まで、司法書士試験の憲法は易しいと言ってきました。それは間違いないのですが、この問題については、まったく憲法を勉強していないと、正解を導くのに苦労しそうですね。

しかし、このような問題が出たらどうするか。たった1点ですが、合否を分ける1点かもしれません。なんとかして、正解を導き出したいもの。

皆さんは、司法書士受験生ということで、私法についてはそれなりに勉強してるはずですね。そして受験科目に民事訴訟法も入っています。この民事訴訟法の知識をフル動員しましょう。

具体的に言えば、選択肢のアについて、憲法82条については、民事訴訟法の口頭弁論の公開主義のところで学んでいますね。さらに、ウとエも、民事訴訟の知識で検討してみましょう。

ウ 家事審判法に基づく遺産分割審判は、相続権、相続財産等の存在を前提としてされるものであるから、公開法廷で行わなくても憲法に違反しないが、この前提事項に関する判断を審判手続において行うことは、憲法に違反する。

民事訴訟法で非訟事件と、訴訟の非訟化についても学んだと思います。家事審判法9条1項の規定は非訟事件と言われるものの一つですね。

非訟事件ですので、公開法廷で行われなくても憲法に違反することはありません。しかし、この前提となる事項については、審判手続きで判断できるか。遺産分割審判などは、家事審判法9条1項の乙類にあたり、私人間の具体的な紛争が前提になっています。この紛争についてまで、審判手続きで判断できるのでしょうか。

ここで民事訴訟の知識をフル動員してほしいのですが、このとき、審判手続きで判断すると、この問題について当事者が十分な手続保障をされない、という問題があるというのですね。しかし、この前提に関する判断は既判力がありません。つまり、この前提問題に対する判断は終局的なものではなく、別に裁判で争うことは可能です。ですから、審判手続きで判断されたとしても、手続保障が不十分であるとはいえないわけです。

よって、ウは間違いですね。

では、エを見てみましょう。

エ 家事審判法に基づく夫婦同居の審判は、夫婦同居の義務等の実体的権利義務自体を確定する趣旨のものではなく、これら実体的権利義務の存することを前提として、同居の時期、場所、態様等について具体的内容を定め、また必要に応じてこれに基づき給付を命ずる処分であると解されるから、公開法廷で行わなくても憲法に違反しない。

これは実は有名な判例であり、民法でも親族法で取り上げられることの多い判例です*1。ですから、この判例自体、皆さんもご存知の可能性も高いと思います。

もちろん、判例を知らなくても、これは非訟事件の性格から考えればよいでしょう。家事審判法に基く夫婦同居の審判というものは、夫婦の同居義務があるかどうかを定めるものではなく、そのような義務が存在していることを前提として、同居の時期、場所、態様などについて、具体的内容を定めるものだというんですね。これは裁判の基準が一義的には定まっていません。いつ、どこで、一緒に住めばよいか、などは、裁判所の裁量的な判断にゆだねられている事項、裁判所が後見的に決定する事項なわけです。

そして、仮に、同居義務の存否について争いがあるならば、それについては訴訟で争うこともできるわけですね。

ですから、夫婦同居の審判については、公開法廷で行わなくても憲法に違反しません。

いいですか、判決って言うのは、当事者同士が、対立点をはっきりさせて、裁判官の面前で争うわけですね。ここで問題になるのは、実体的権利義務関係の存否、あるかないか、ね。金を払わなくちゃいけないのか、払わなくてもいいのか、あるいは、立ち退かなくちゃいけないのか、住み続けていいのか、とか、鋭く対立するわけだ。こういうのに対しては、公開の対審が要求されるんですね。

ですが、ここでは、そもそも、離婚が成立してるとか、同居の義務なんてないんだ、とか、そういう争いじゃないんですって言うんですね。そういう権利義務があることを前提として、それをどうしなさいね、とか決める裁判なわけです。だからこれは公開法廷で行われる必要はない、ということですね。

ですから、エは正しい。

このように、民事訴訟法(と親族法)の知識で、アは正しい、ウは間違い、エは正しい、ということがわかります。

1 アイ  2 アエ  3 イオ  4 ウエ  5 ウオ

誤っているものの組合せを求めるので、アとエが正しいことから、
1 アイ  2 アエ  4 ウエ は切ることができます。

すると、3 イオ  5 ウオの二つが残ります。そして、ウは間違いでした。
すると、イオとウオ、オが共通です。つまり、実質的にはイとウのどちらが間違いか、ということなわけです。そして、ウが間違っている以上、5 ウオが答えなわけです。

残りのオも検討しておきます。

オ 刑事確定記録の閲覧は、表現の自由等を定めた憲法第21条によっては必ずしも国民の権利として保障されているものではないが、憲法第82条によって国民の権利として保障されたものであるから、これを制限する旨の法の規定は憲法に違反する。

前提知識としては、刑事訴訟法53条が確定訴訟記録の公開原則を定めていることを確認してくださいね。なお、民事訴訟については、民事訴訟法91条が公開原則を定めています。確定訴訟というのは、要するに、終結した訴訟ですね。

この公開原則にはいろいろな例外が定められています。こうした例外をどこまで広く認められるかについて、もし、これらの閲覧権というものが憲法上認められる権利であるとすれば、例外はあくまでも狭く考えるべきですし、逆に、法律によって創設された権利であるとするならば、法の定める枠内での権利として、法が例外とするものについては、権利が及ばないと考えられます。

そして、判例は、憲法82条の公開制度は、制度を保障したものであって、個別的な権利を認めたものではないという立場をとります。そこから、最高裁は、法廷においてメモを取る自由は、憲法上の権利ではないとしますし(レペタ事件)、刑事事件の確定記録の閲覧権についても、憲法上の権利ではないとします。

なお、知る権利(表現の自由)を定めた憲法21条が、これらを保障するかどうかについて、レペタ事件で、最高裁は、メモを取る自由は憲法21条の精神に照らして尊重されるべきであり、理由なく妨げられるべきではないと判示したものの、憲法上の権利とは認めませんでした。(最高裁は「表現の自由そのものとは異なるもの」としました。)

刑事事件の確定記録の閲覧権について争われた最判平成2・2・16は、このレペタ事件を引用、刑事確定訴訟記録の閲覧は、憲法上の権利ではないとしました。

なお、この事件に限らず、一般に最高裁の判断の仕方として、制度的な保障とみなされるものについては、そこから直接、権利を引き出すことに慎重な姿勢をとることが多いです。そのことを知っていれば、判例につき知らなくても、判断できる選択肢だとは思います。


第3問

次のA説からC説までは、予算の法的性格に関する見解である。次のアからオまでの記述のうち、正しいものの組合せは、後記1から5までのうちどれか。

A説: 予算は、国会が政府に対して1年間の財政計画を承認する意思表示であって、もっぱら国会と政府との間でその効力を有し、法的性格を有しない。
B説: 予算に法的性格は認めるが、法律とは異なった国法の一形式である。
C説: 予算は、いわば予算法ともいうべき法律それ自体である。

ア A説に対しては、財政民主主義の原則や財政国会中心主義の原則と矛盾するという批判が可能である。
イ B説によれば、法律が制定されてもその執行に要する予算が成立していない場合には、予備費の支出等、別途の予算措置を講じることによる支出を除き、支出をすることはできないと解することになる。
ウ C説の根拠として、予算はいわば国家内部的に、国家機関の行為のみを規律し、1会計年度内の具体的な行為を規律するものであるという点をあげることができる。
エ C説によれば、国会は、内閣が提出する予算の減額修正権は有するが、増額修正権は有しないと解することになる。
オ B説及びC説のいずれの考え方によっても、予算は成立したが当該予算の執行を内容とする法律が不成立となった場合には、支出をすることはできないと解することになる。

1 アイ  2 アエ  3 イオ  4 ウエ  5 ウオ

解説

時間がある方には、財政については必ず勉強しておくように話しています。財政は、範囲も狭く、問われることも決まっていますので、勉強さえしておけば、よほどのことがない限り、楽勝で正答できます。

とはいえ、そこは、試験直前の皆さん。今から財政について勉強しろとはいえませんね。

そこで、やはり、基礎知識なしで解く方法を考えましょう。

何はともあれ、本文の見解を確定します。

A説: 予算は、法的性格を有しない。
B説: 予算に法的性格はあるが、法律とは異なった形式。
C説: 予算は、法律それ自体である。

この3つですね。

それでは、アから確認をしましょう。

ア A説に対しては、財政民主主義の原則や財政国会中心主義の原則と矛盾するという批判が可能である。

予算は法的性格を持たないというのがA説。これは財政民主主義の原則や、財政国会中心主義の原則と矛盾するという批判が可能か?

予算は国会で承認しますね。それにもかかわらず、法的性格を持たないとなると、ただ承認しただけってことになるわけですね。

内閣「今年はこれでいきたいんだけど」
国会「うん、いいよ」
内閣「やっぱり変えちゃった」
国会「なんだ、せっかく承認したのになあ」
じゃなくて、勝手に変えさせちゃダメなんじゃないですか?
財政民主主義っていうのは国会がコントロールするってことでしょ?
矛盾するわけですよ。

で、アは正しいです。

この時点では、切れるものはありませんが、
イかエが正しければ、答えは手っ取り早くでますね。

イ B説によれば、法律が制定されてもその執行に要する予算が成立していない場合には、予備費の支出等、別途の予算措置を講じることによる支出を除き、支出をすることはできないと解することになる。

B説は、法的性格はあるんでした。でも、法律とは違う形式でしたね。

この説によると、法律が制定されても予算が成立していないなら、基本的には支出できないっていうんですね。これが正しいか。

予算は法律とは別の形式だっていうんでしょ。つまり、支出は、予算と言う形式、法律の形式では支出はできない、っていうんですよ。

だから、正しいじゃないですか。論理的にね。

1 アイ が答えに決定です。

はい、おしまい。

まあ、おしまいってのもあれなんで、解説は続けます。

ウ C説の根拠として、予算はいわば国家内部的に、国家機関の行為のみを規律し、1会計年度内の具体的な行為を規律するものであるという点をあげることができる。

C説は、予算は法律なんだよって言うんですよ。

国家内部のことだけだしさ、国家機関の行為のみを規律するんだもん、って言うんでしょ。法律ってのは、一般国民の行為を一般的に規律するものでしたね。つまり、予算は法律だって根拠になんかなってないでしょ。

ウはまちがい。

エ C説によれば、国会は、内閣が提出する予算の減額修正権は有するが、増額修正権は有しないと解することになる。

C説は、予算は法律だって言うんですよ。法律は誰が作るの?内閣ですか?内閣に法律案の提出権を認めるにしても、その法律案が国会を縛ったりはしないわけですよね。

内閣ごときの案で、増額しちゃいけないなんて言わせちゃダメでしょ。法律なんだったらさ。

エも間違い。

オ B説及びC説のいずれの考え方によっても、予算は成立したが当該予算の執行を内容とする法律が不成立となった場合には、支出をすることはできないと解することになる。

B説は、予算と法律は別の形式だっていうんですよね。成立した予算を使うための法律が成立していないなら、予算は法律の代わりにはならないわけだから、支出はできませんね。この点は正しいわけです。

ですが、C説。これは予算も法律だっていうわけ。予算があれば、法律に基づいて支出したことになるでしょ。だから、そもそも、予算は成立したが当該予算の執行を内容とする法律が不成立となった場合ってのが、考えられないわけですよ。

だって、予算と法律は同じなんだ、だから、予算と法律の矛盾なんておこらないんだ、っていうのが、この説の考え方。

というわけで、勉強していなくても、素直に考えればこの問題は解けます。ですが、勉強しておいた人にとっては、非常に基礎的な問題だっただろうと思います。

なお、AからC説と並立的に記述されていますが、歴史的には、A説を批判する形で、B説C説が出てきたことを知っておくといいですね。

つまり、

予算については、最初は法的性格を有しないとされたわけですね。これが承認説または予算行政説であり、天皇機関説で有名な美濃部先生など、昔の学者の説です。現在、この説を支持する学者はいません。

B説は、予算には法的性格はあるが、法律とは異なった国法形式だとします。なぜなら、これは一般国民の行為を一般的に規律する法律とは異なり、国家内部的に国家機関の行為、しかも一会計年度の具体的な行為を規律するものだから、というわけです。

C説は、諸外国と同様に、予算を法律として理解すべきだとする説です。このB説とC説の対立の根底には、法律の性格をどこに重点を置いて捉えるか、一般私人に対する拘束力に重点を置くか、それとも、国会の議決という要素に重点を置くかの違いがあるわけですね。

おまけ さらに簡単に解く。

知識がなければ論理で攻めるしかありません。
論理問題として攻める場合のコツは、極端な部分を狙うということ。

つまり、
ポイントは、A説は予算に法的性格がない、という点。
そして、C説は、予算=法律としている点です。

こういう極端な説を狙います。

三権分立の基本原則から考えて、
行政というのは、立法の枠の中で行動するわけです。
このように、行政に対し、民主主義的な統制が行われているわけですね。

では、予算が法的な性格がまったくないとしたら、
そう、民主主義的統制が行われない、ということになるわけです。

よって、アは正しい。

次に、AかC説を扱っているのは、ウですね。

ウ C説の根拠として、予算はいわば国家内部的に、国家機関の行為のみを規律し、1会計年度内の具体的な行為を規律するものであるという点をあげることができる。

C説は、予算=法律でしたね。その根拠が、国家内部的で、国家機関の行為のみを規律してて、一会計年度の具体的な行為を規律?

そりゃ無茶だわ、って思うでしょ?

これは、議会の議決があるからって法律とは限らないでしょ、っていう意見の根拠ですよ。

だから、ウは間違い。

次に、エを見ましょう。これもC説です。

エ C説によれば、国会は、内閣が提出する予算の減額修正権は有するが、増額修正権は有しないと解することになる。

あれれ?予算は法律なんでしょ。

内閣が提出した法律案を、国会が好きなように変えて、何が悪いの?
法律なんだもん。

これも、簡単でしょ。

ここまでで、ウとエが違うことはわかりました。よって、2と4と5は切れます。残りの、1と3は、アイとイオですね。
ここで、イは両方にあるので、間違いではないはず。なぜなら、答えがなくなっちゃいますので。

で、アが正しいというんですから、アイの1に答えは決まります。

つまり、アとウとエの検討で、答えは出るわけですね。
以上が、なるべく簡単に解くとき方。

いいですか、両極端の説を狙うのがコツですね。中間的な説はややこしいんで。
たとえば、生存権だって、プログラム規定説はわかりやすいでしょ。
で、具体的権利説も、どこまで認めるかは別として、言いたいことはわかる。

でも抽象的権利説、わっかりにくいよねえ。
だから、肢を検討するときは、抽象的権利説は見ない、っていう大胆なやり方も知っておくといいでしょう。

結構、最低限度はこれで解けます。

つまり、司法書士試験の場合、中途半端な勉強なら、憲法の場合、やってもやらなくても同じ。3問できるレベルじゃなきゃ、勉強する意味はない、ってことです。


*1 二宮「家族法(第2版)P17およびP372」、内田「民法Ⅳ(補訂版)」PP21-22など

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