憲法、憲法判例、憲法学習法

平成27年度司法書士試験憲法 第1問

平成27年度司法書士試験憲法 第1問

平成27年度第1問

第1問 精神的自由に関する次のアからオまでの記述のうち、判例の趣旨に照らし正しいものの組み合わせは、後記1から5までのうち、どれか。

ア 個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容貌・姿態を撮影されない自由を有するから、警察官が正当な理由なく個人の容貌・姿態を撮影することは許されない

イ 裁判所が、他人の名誉を毀損した加害者に対して、被害者の名誉を回復するのに適当な処分として謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずることは、その加害者の人格を無視し、意思決定の自由を不当に制限することとなるので、その内容が単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するにとどまる程度のものであったとしても、当該加害者の思想及び良心の自由を侵害し、許されない。

ウ 剣道実技の科目が必修とされている公立の高等専門学校において、特定の宗教を信仰していることにより剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置として、他の体育実技の履修やレポートの提出を求めた上で、その成果に応じた評価をすることは、その目的において宗教的意義はないものの、その宗教を援助、助長、促進する効果を有し、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるから、政教分離の原則に違反する。

エ 報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき重要な判断の資料を提供し、国民の知る権利に奉仕するものであるから、報道の自由及び報道のための取材の自由はいずれも憲法上保障されており、裁判所が、刑事裁判の証拠に使う目的で、報道機関に対し、その取材フィルムの提出を命ずることは許されない。

オ 大学において学生の集会が行われた場合であっても、その集会が、真に学問的な研究又はその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ、公開の集会又はこれに準じるものであるときは、その集会への警察官の立入りは、大学の学問の自由と自治を侵害するものではない。

1 アイ  2 アオ  3 イエ  4 ウエ  5 ウオ


この問題は、ずいぶんストレートに重要判例の結論を尋ねています。ですので、重要判例の要旨を押さえていれば簡単だとは思います。また、判例という形で取り出して勉強していなくても、いくつかの精神的自由が、いったいどこまでを保障しているのか、という問題を取り扱っています。その意味では、それぞれの自由権について学習する際、その自由権の保障範囲ということで学んでいるところだと思います。

なのですが、司法書士試験の憲法というのはたった3問しかなく、しかも、司法書士試験は、司法試験と比べても、(私見では)覚えなければならない知識が大量な試験ですから、憲法に手が回らないという可能性も結構あるのかな、と思ったりはします。

そこで、まず、(1)憲法の知識なしで解く、(2)最低限の知識で解く、(3)普通の解説、以上の順で解説します。余裕のある方は、ぜひ(3)の普通の解説の部分を読んで、関連知識や考え方を身につけていただきたいと思います。

(1)憲法の知識なしで解く

ところで、あくまでも一般論ですが、ある選択肢が正しいと判断することと、その選択肢が間違っていると判断することとを比べれば、通常は、間違っていると判断することの方が簡単です。

なぜかと言えば、間違っているという判断は、一箇所間違いを発見すれば終わりですが、正しいという判断は、すべてが正しいこと、一つも間違いがないことを確認しなければならないからです。

また、「なんとなくおかしい」とか「なんか意味が通じない」という場合、はっきり言えば勘が働く場合というのも間違っている時の方が多い気がします。

そう考えると、この手の問題は、間違っている選択肢を切る、という方向が受験生にとってはやりやすいのではないでしょうか。

まず全体をざっと読んだときに、これは判例とは違いそうだな、とすぐに感じるのがエではないでしょうか。

裁判所が刑事裁判に使う目的で、報道機関に対してその取材フィルムの提出を命じることは許されないか、という問題です。本来どうあるべきであるか、ではなく、裁判所がどのように判断しているか、という観点で考えてみましょう。

ここでは刑事裁判が問題になっています。刑事裁判ですから、場合によっては、犯人が特定できたり、あるいは被疑者が犯人ではないとされたりするわけです。もし、真犯人だ、ということになれば、何年もの懲役、場合によっては死刑すらありうるわけですね。これが冤罪であったら大変なことなわけです。つまり、刑事裁判においては真実を明らかにすることの必要性というのがものすごく高そうですよね。

それに対して、もしかしたら取材フィルムに犯人が写っているかもしれない、だとか、あるいは、その時刻の被疑者のアリバイ証明ができる、とか、なにかそんな決定的な証拠がある可能性があったとします。

これを、無造作に、気軽に裁判所が提出命令を出せるとするのか、それとも、厳格な要件を定めて、こうした報道機関の報道の自由も尊重するのか、という問題は当然ありますが、取材の自由があるから、取材フィルムの提出の命令は許されない、なんて一般的な形で言ってしまうことがありうるか、という話です。

結局、刑事裁判においては、公共の福祉の維持と基本的人権の保障を全うしながら、事案の真相を明らかにすることが求められているわけです。裁判官というのは、バランスの人たちですから、(ときどき傾いちゃっている人もいる気がするとかいう話は置いておいて)対立する利益において、片方を無視した判断というのはしない、というのが一般的な傾向です。

まして、刑事裁判の場合、民事と異なり、公共の福祉の要請が高いものですので、取材フィルムの提出命令が許されない、となる可能性はかなり低いだろうと判断できます。

というわけで、選択肢エは正しくないだろう、と判断します。

すると、解答の選択肢のうちエが含まれる3と4はカットできます。すると、残りは
1 アイ 2 アオ 5 ウオ が残ります。

次にウを見てみましょう。

目的効果基準が出ていますが、そこはとりあえず無視します。

政教分離の原則に違反する、という言い回しがポイントです。もととなった判例を知らないとしても、剣道実技の代わりに他の実技やレポートの提出などの代替措置を認めることについて、それを認めないことが学校の裁量権を逸脱してるとかいうことはありえても、そのような代替措置をとったことが憲法違反だ、などということがあるだろうか、ということです。

ここでの言い回しは、一見したところ、個人の信仰の自由と国家の政教分離原則の緊張関係のようにも見えますが、もともとの話としては、学校の統制と信仰の自由との対立関係です。そして、学校側は、この場合であれば代替措置をとらなかったことの言い訳として、政教分離原則を出してきたと考えるのが自然でしょう。学校側の主張としては、政教分離原則があるから代替措置は取れません、と主張することはあっても、裁判所が政教分離原則があるから大体措置をとってはいけません、と言うでしょうか。学校側の主張を認めるにしても、学校が代替措置をとらなかったことには裁量の範囲内でした、と言えば済む話なのです。そんなときにわざわざ憲法違反を言うとは考えにくいですね。

まあ、そこまで深読みしなくても、裁判所が政教分離原則をもとに、剣道の代わりにレポート提出程度の代替措置を禁止するだろうか、と考えればすみますね。たとえば、豚肉が食べれない宗教の人が、給食の代わりに弁当を持ってきたい、といって、それは政教分離に反する、とか、ありそうもないですよね。

そもそも、常識的に、日本においてはアメリカのように厳格な政教分離がとられていないことはご存知の方が多いと思います。政教分離に関して、違憲判決というものが出ているとはいうものの、どちらかといえば、日本人の宗教感覚は、クリスマスを祝い、正月には初詣に参り、七五三は神社、お葬式はお寺、のようなところがあるわけです。その風土において、あまり厳格な政教分離の判断をしていないことも想像がつくのではないでしょうか。

というわけで、常識的な判断として、ウ程度のことが政教分離に反するとして学校に対して禁止されるとは思えないわけです。

そうすると、ウの選択肢を切り、残るのは
1 アイ 2 アオ の二択です。

もっと言えば、イかオのどちらが正しいか、ということです。
正直言えば、この先、イかオを常識だけで判断するのは難しいかな、とは思います。

ただ、先の宗教に対する緩やかな態度とは異なり、政治的な行為には厳しい日本の裁判所の傾向を考えると、オの方が正しそうに感じる方も多いのではないでしょうか。

文章の構造としても、
オは、「本来、規制が許されない場面で、例外要素があるから、許される」という構造。
イは、「本来、規制が許されない場面で、例外要素があるにもかかわらず、許されない」という構造。

どちらが正しそうか、といえば、やはりオですね。

(2)最低限の知識でとく

ア~オまでの素材となった判例のうち、有名なのは

で、判例として有名なのはどちらかと考えると、アウオでしょう。
エもできれば知っていてほしい判例ですが、やや微妙な点もありますね。
イの謝罪広告事件は、どちらかといえばマイナーな判例だとは思います。幸福追求権の法的性格という論点を学習した方であれば知っていると思いますが。

ところで、ここでの記述はすべて、判例の要旨をストレートに聞いた問題で、ある意味、知識問題ではあります。

アは、もう判例そのまんま、基本書にもよく引用されている箇所ですね。
ウは、エホバの証人の信徒の方が剣道実技の科目を受けずに、見学しレポートも自ら書いて提出していたのですが、原級留置・退学となった有名な事件。これも信教の自由の代表的判例の一つです。
オの東大ポポロ事件も、重要判例です。学問の自由のところで、どんな教科書にも出てきますね。

そもそも、この問題、アとオの判旨を知っていれば正解できちゃう問題でした。

(3)普通の解説


ア 京都府学連事件(最大判昭和44・12・24)

個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容貌・姿態を撮影されない自由を有するから、警察官が正当な理由なく個人の容貌・姿態を撮影することは許されない


これは京都府学連事件(最大判昭和44・12・24)です。

憲法13条の幸福追求権は、個別の具体的人権の源泉のような権利として、個々の条文にない具体的人権の根拠とも考えられています。学説上はプライヴァシー権なども憲法13条から認められると

さて、京都府学連事件では、最高裁は、「肖像権と称するかどうかは別として」「警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されない」としました。

もちろん、最高裁は絶対的に個人の容ぼう等を撮影してはだめだと言ったのではなく、「正当な理由もないのに」撮影してはだめだ、と言ったのであり、
①現に犯罪が行われもしくは行われたのち、間がないと認められる場合
②証拠保全の必要性および緊急性があり
③撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもって行われる場合、
撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容される、としました。
また、このような場合に行われる警察官による写真撮影は、撮影の対象の中に、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等が含まれても許容される場合がある、としました。

京都府学連事件(最大判昭和44・12・24)
憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。」


イ 謝罪広告事件(最大判昭和31・7・4)

裁判所が、他人の名誉を毀損した加害者に対して、被害者の名誉を回復するのに適当な処分として謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずることは、その加害者の人格を無視し、意思決定の自由を不当に制限することとなるので、その内容が単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するにとどまる程度のものであったとしても、当該加害者の思想及び良心の自由を侵害し、許されない。


これは思想・良心の自由の判例である「謝罪広告事件(最大判昭和31・7・4)」からの出題であり、憲法19条の保障する思想・良心の自由が何を指すのかという論点に関わる問題です。

憲法19条の保障した「思想及び良心」とは、単なる事実の知・不知は含まれないことを前提として、以下の二つの考え方があります。
①広義説(内心説):ものの考え方にかかわる精神作用すべて
②狭義説(人格説):世界観・人生観や主義・主張のような個人の人格の核心をなす内面的精神作用

最高裁でも、この点について、事物に関する是非分別の判断まで含むという立場(①広義説)と、謝罪の意思表示の起訴である道徳的な反省とか誠実さというような事物の是非・善悪の判断は含まれないという立場(②狭義説)の争いもありいましたが、多数意見は、特に憲法論は展開することなく、「単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するに止まる程度のもの」を強制しても良心の自由を必ずしも侵害するものではない、としました。

ですので、イの文章は、判例の趣旨と異なります。

謝罪広告事件(最大判昭和31・7・4)
「謝罪広告を命ずる判決にもその内容上、これを新聞紙に掲載することが謝罪者の意思決定に委ねるを相当とし、これを命ずる場合の執行も債務者の意思のみに係る不代替作為として民訴七三四条に基き間接強制によるを相当とするものもあるべく、時にはこれを強制することが債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限することとなり、いわゆる強制執行に適さない場合に該当することもありうるであろうけれど、単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあつては、これが強制執行も代替作為として民訴七三三条の手続によることを得るものといわなければならない。」「原判決の是認した被上告人の本訴請求は、結局上告人をして右公表事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すべきことを求めるに帰する。されば少くともこの種の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられない」


ウ 剣道実技拒否事件(最判平成8・3・8)

剣道実技の科目が必修とされている公立の高等専門学校において、特定の宗教を信仰していることにより剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置として、他の体育実技の履修やレポートの提出を求めた上で、その成果に応じた評価をすることは、その目的において宗教的意義はないものの、その宗教を援助、助長、促進する効果を有し、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるから、政教分離の原則に違反する。


この文章は、剣道実技拒否事件(最判平成8・3・8)を素材とした文章です。

エホバの証人の信者が、その絶対的平和主義の教えから神戸の工業高専において剣道実技を拒否したという事件です。

ちなみに、当時、兵庫県内の高校は、すべて格闘技を行っており、唯一、この工業高専のみが格闘技を行わない高校だったそうです。そこで、この学校にはエホバの証人の信者が集まっていたそうですが、武道場を含む新校舎が建設され、体育実技として剣道が採用された、という経緯があります。学校側は、入試説明会で、新校舎への移転と、剣道の採用を明言していたという事情もありますが、一方で、兵庫県で高校へ行こうとした場合、他の格闘実技がない学校を選ぶという選択肢もありませんでした。

そして、本人は、剣道実技の間、正座して見学し、見学レポートを提出しようとしていたにもかかわらず、学校側は拒否。そのため、他の教科は大変優秀だったにもかかわらず、二度にわたり留年し、結局退学となってしまったわけです。

最高裁は、
① 剣道実技が工業高専において必須とは考えられないこと。
② 単なる怠惰などではなく、真摯な宗教的理由に基づいていること。
③ にもかかわらず、不利益が退学処分という非常に重大なものであること。
④ レポートなどの代替措置を取ることは、目的効果規準から大きな問題はないと考えられること。
以上にもかかわらず、履修拒否の主な理由や、全体的な成績について検討せず、「学力劣等で成業の見込みがない」として退学処分にした学校側の措置は、社会観念上著しく妥当を欠く処分であり、裁量権の範囲を越える違法なものと判断しました。

この本文は、主に上記③の目的効果基準における判断を扱った部分です。

最高裁は代替措置をとることについて、「目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するもの」ではなく「他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえない。」と判断しました。

よって、このウの文章も最高裁判例の趣旨と異なります。

剣道実技拒否事件(最判平成8・3・8)
「高等専門学校においては、剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも性質上可能というべきである。」
「被上告人が剣道実技への参加を拒否する理由は、被上告人の信仰の核心部分と密接に関連する真しなものであった。」「信仰上の理由による剣道実技の履修拒否の結果として、他の科目では成績優秀であったにもかかわらず、原級留置、退学という事態に追い込まれたものというべきであり、その不利益が極めて大きいことも明らかである。」
「それらによる重大な不利益を避けるためには剣道実技の履修という自己の信仰上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせられるという性質を有するものであったことは明白である。」
「被上告人が、自らの自由意思により、必修である体育科目の種目として剣道の授業を採用している学校を選択したことを理由に、先にみたような著しい不利益を被上告人に与えることが当然に許容されることになるものでもない。」
「神戸高専においては、被上告人ら「エホバの証人」である学生が、信仰上の理由から格技の授業を拒否する旨の申出をするや否や、剣道実技の履修拒否は認めず、代替措置は採らないことを明言し、被上告人及び保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も一切拒否し、剣道実技の補講を受けることのみを説得したというのである。本件各処分の前示の性質にかんがみれば、本件各処分に至るまでに何らかの代替措置を採ることの是非、その方法、態様等について十分に考慮するべきであったということができるが、本件においてそれがされていたとは到底いうことができない。」
「信仰上の理由に基づく格技の履修拒否に対して代替措置を採っている学校も現にあるというのであり、他の学生に不公平感を生じさせないような適切な方法、態様による代替措置を採ることは可能であると考えられる。」
「また、履修拒否が信仰上の理由に基づくものかどうかは外形的事情の調査によって容易に明らかになる」「代替措置を採ることによって神戸高専における教育秩序を維持することができないとか、学校全体の運営に看過することができない重大な支障を生ずるおそれがあったとは認められない」「代替措置を採ることが実際上不可能であったということはできない。」
「信仰上の真しな理由から剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置として、例えば、他の体育実技の履修、レポートの提出等を求めた上で、その成果に応じた評価をすることが、その目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえないのであって、およそ代替措置を採ることが、その方法、態様のいかんを問わず、憲法20条3項に違反するということができないことは明らかである。」
「公立学校において、学生の信仰を調査せん索し、宗教を序列化して別段の取扱いをすることは許されないものであるが、学生が信仰を理由に剣道実技の履修を拒否する場合に、学校が、その理由の当否を判断するため、単なる怠学のための口実であるか、当事者の説明する宗教上の信条と履修拒否との合理的関連性が認められるかどうかを確認する程度の調査をすることが公教育の宗教的中立性に反するとはいえない」
「以上によれば、信仰上の理由による剣道実技の履修拒否を、正当な理由のない履修拒否と区別することなく、代替措置が不可能というわけでもないのに、代替措置について何ら検討することもなく、体育科目を不認定とした担当教員らの評価を受けて、原級留置処分をし、さらに、不認定の主たる理由及び全体成績について勘案することなく、2年続けて原級留置となったため進級等規程及び退学内規に従って学則にいう「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に当たるとし、退学処分をしたという上告人の措置は、考慮すべき事項を考慮しておらず、又は考慮された事実に対する評価が明白に合理性を欠き、その結果、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものと評するほかはなく、本件各処分は、裁量権の範囲を超える違法なものといわざるを得ない。


エ 博多駅事件(最大決昭和44・11・26)

報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき重要な判断の資料を提供し、国民の知る権利に奉仕するものであるから、報道の自由及び報道のための取材の自由はいずれも憲法上保障されており、裁判所が、刑事裁判の証拠に使う目的で、報道機関に対し、その取材フィルムの提出を命ずることは許されない。


この文章は、博多駅事件(最大決昭和44・11・26)を素材としたもの。

アメリカの原子力艦艇の佐世保港入港に反対運動を行うために、博多駅に下車した学生300名が、警備していた機動隊と衝突し、その際に、機動隊員が行った行為が、特別公務員暴行陵虐罪にあたるとして告発されました。この審理のために、裁判所は放送局に対し、事件の状況を撮影したフィルムの提出を求めましたが、放送局側は、この提出命令が憲法21条違反であるとして取消を求めて抗告した事件です。

最高裁は、報道を、民主主義社会において国民の知る権利に奉仕する重要なものとし、報道の自由も、表現の自由を保障した憲法21条の保障のもとにあることを述べました。そして、報道のための取材の自由も、「憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値するもの」としました。

一方で、公正な裁判の実現という憲法上の要請においては、取材の自由もある程度の制約を受けることもやむをえないとしました。

裁判所は、報道の自由は憲法上保障された自由としつつ、取材の自由は、それより一段下げて、十分尊重に値するもの、としたわけです。十分尊重に値するけど、はっきり言えば憲法上の権利じゃないとしたのですね。

報道は思想の表現ではなく、事実の表現だけど、国民の知る権利に奉仕するものだから、憲法上の権利、でも取材は、その報道を作る前階であって、表現そのものじゃないということです。

ですから、この本文中、取材の自由が憲法上保障されているという部分、そして、取材フィルムの提出が許されないとした部分が間違っていますね。

博多駅事件(最大決昭和44・11・26)
「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものである。したがつて、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法二一条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。」
「しかし、取材の自由といつても、もとより何らの制約を受けないものではなく、たとえば公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けることのあることも否定することができない。」
「公正な刑事裁判を実現することは、国家の基本的要請であり、刑事裁判においては、実体的真実の発見が強く要請されることもいうまでもない。このような公正な刑事裁判の実現を保障するために、報道機関の取材活動によつて得られたものが、証拠として必要と認められるような場合には、取材の自由がある程度の制約を蒙ることとなつてもやむを得ないところというべきである。」
本件の審理は「現在において、被疑者および被害者の特定すら困難な状態であつて、事件発生後二年ちかくを経過した現在、第三者の新たな証言はもはや期待することができず、したがつて、当時、右の現場を中立的な立場から撮影した報道機関の本件フイルムが証拠上きわめて重要な価値を有し、被疑者らの罪責の有無を判定するうえに、ほとんど必須のものと認められる状況にある。」
「他方、本件フイルムは、すでに放映されたものを含む放映のために準備されたものであり、それが証拠として使用されることによつて報道機関が蒙る不利益は、報道の自由そのものではなく、将来の取材の自由が妨げられるおそれがあるというにとどまる」
「刑事裁判が公正に行なわれることを期するためには、この程度の不利益は、報道機関の立場を十分尊重すべきものとの見地に立つても、なお忍受されなければならない程度のものというべきである。」
本件フイルムを証拠として使用するために「本件提出命令を発したことは、まことにやむを得ないものがあると認められる」


オ 東大ポポロ事件(最大判昭和38・5・22)

大学において学生の集会が行われた場合であっても、その集会が、真に学問的な研究又はその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ、公開の集会又はこれに準じるものであるときは、その集会への警察官の立入りは、大学の学問の自由と自治を侵害するものではない。


こちらは、東大ポポロ事件(最大判昭和38・5・22)ですね。

これも結構印象的な事件で、東大のポポロ劇団が学内で演劇公演を行った際、私服警察官が潜入していたのが学生が発見されました。当時は学生も元気がよかったんでしょうね。学生たちは、この警察官をこれを拘束しちゃって、二度と学内に浸入しません、という始末書に署名させました。その際に、警察官のポケットから紐を引きちぎるなどの暴行を加えたとして、起訴されたわけです。ところが、学生たちは、この警察官から警察手帳を奪っていて、その記載にようると、連日のように大学構内で、張り込み・尾行・盗聴を行っていたことが明らかになり、大学の自治に関わる重大な裁判となりました。

最高裁は、以下のように判断しました。
①大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められる。
②これは、直接には、教授その他の研究者の研究、発表、教授の自由と、それを保障するための自治を意味し、これらの自由と自治の効果として、学生も学問の自由と施設の利用を認められるもの。
③学生の集会が、実社会の政治的社会的活動にあたる行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しない。
④本件の集会は、実社会の政治的社会的活動であり、かつ、公開の集会であったため、警察官が、この集会に立ち寄ったとしても、大学の学問の自由と自治を犯すものではない。

ですので、オの文章は、判例の趣旨に照らし正しいと言えます。

東大ポポロ事件(最大判昭和38・5・22)
「大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味する」
「これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである。」
憲法23条の学問の自由は、学生も一般の国民と同じように享有する。しかし、大学の学生としてそれ以上に学問の自由を享有し、また大学当局の自治的管理による施設を利用できるのは、大学の本質に基づき、大学の教授その他の研究者の有する特別な学問の自由と自治の効果としてである。」
「学生の集会が真に学問的な研究またはその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動に当る行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しないといわなければならない。また、その集会が学生のみのものでなく、とくに一般の公衆の入場を許す場合には、むしろ公開の集会と見なされるべきであり、すくなくともこれに準じるものというべきである。」
「本件の東大劇団ポポロ演劇発表会は、原審の認定するところによれば、いわゆる反植民地闘争デーの一環として行なわれ、演劇の内容もいわゆる松川事件に取材し、開演に先き立つて右事件の資金カンパが行なわれ、さらにいわゆる渋谷事件の報告もなされた。これらはすべて実社会の政治的社会的活動に当る行為にほかならないのであつて、本件集会はそれによつてもはや真に学問的な研究と発表のためものでなくなるといわなければならない。」「右発表会の会場には、東京大学の学生および教職員以外の外来者が入場券を買つて入場していたのであつて、本件警察官も入場券を買つて自由に入場したのである。これによつて見れば、一般の公衆が自由に入場券を買つて入場することを許されたものと判断されるのであつて、本件の集会は決して特定の学生のみの集会とはいえず、むしろ公開の集会と見なさるべきであり、すくなくともこれに準じるものというべきである。」
「本件集会は、真に学問的な研究と発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ公開の集会またはこれに準じるものであつて、大学の学問の自由と自治は、これを享有しないといわなければならない。したがつて、本件の集会に警察官が立ち入つたことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない。」

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