憲法、憲法判例、憲法学習法

Q&Aまとめ

このページでは、皆さんからいただいたご質問とそれに対しての回答のうち、お役に立ちそうなものをまとめています。なお、ご質問はこちらへどうぞ

平成22年司法書士試験第2問について

平成22年司法書士試験第2問のオの選択肢は、オウム真理教解散命令事件での決定の趣旨に照らして正しいと考えてよいのでしょうか。

平成22年司法書士試験第2問は、選択肢が判例の趣旨に照らして正しいか否かを問うものでした。そして、オの選択肢は、
「ある特定の宗教法人に対して国が解散命令を発することは、国が当該宗教法人と密接にかかわることになるから、政教分離の原則に違反し、許されない。」というもの。

オウム真理教解散命令事件(最決平成8・1・30)で、最高裁は、解散命令について、「必要でやむをえない法的規制」として合憲と判断しました。

合憲か違憲か、という結論だけをみれば、確かにオの選択肢はオウム真理教解散命令事件の決定の趣旨とは異なると言っても間違いではないでしょう。

ただし、この事件では政教分離の原則に違反しているかが争われたわけではありません。解散命令が信者の信教の自由を侵していないか、が争われた事件です。ですから、オの選択肢はオウム真理教解散命令事件とは異なる論点を述べたものです。

もともと宗教法人というのは、宗教団体に対して権利能力を与えるために付与された法律上のものです。このように宗教団体に法人格を与えたことそのものを政教分離に反すると考えるのであればともかく(※)、法律上の存在である「宗教法人」に対して、法律の定めに従って統制を行うことが政教分離に反するという考えは論理的に成り立ちません。

※もちろん、宗教法人法は、専ら宗教団体の権利義務といった世俗的事項について、定めるのみで、宗教そのものについての干渉を行うものではありませんので、これをもって政教分離違反とはいえません。

ですから、このオについては、そもそも判例云々以前に間違っていると考えるのが正しいと思われます。

レペタ訴訟について

レペタ訴訟で判例は、「筆記行為の自由は、憲法21条1項の規定の精神に照らして尊重されるべき」と言っています。これは、博多駅事件が、取材の自由について「十分尊重に値する」というのと、重要度が違うという意味なんですか。

ご質問の通り、博多駅事件(最大決昭和44・11・26)において、最高裁は、報道の自由は憲法21条1項によって保障され、取材の自由は、憲法21条の精神に照らし「十分尊重に値する」としました。

一方、レペタ訴訟(最大判平成元・3・8)では、憲法21条1項の表現の自由から、補助行為としての筆記行為の自由は「尊重されるべき」であり、法廷でメモをとる行為について「憲法第21条の精神に照らして尊重に値し、故なく妨げられてはならない」としています。

結論的に言えば、最高裁は、筆記行為の自由について、取材の自由よりも一段下の重要性の自由と評価したといえます。

問題は、なぜわざわざそんな微妙な区別をしたか、ということです。

実は、レペタ訴訟において、報道機関の記者はメモを許されていました。そのことが差別ではないのかも争われたわけです。これに対して、最高裁は、一般人のメモをとる行為が尊重に値するものであるのに対して、記者の取材の自由は「十分」尊重に値するものとしたわけです。

そうなると、記者にのみメモを認めたとしても、これは重要度の異なる自由に対して、異なるように対処したわけで、差別にならない、というわけです。

もっとも、最高裁は、筆記行為を制限した行為は適切ではなかったとしています。ただ結論的には、国賠法上の違法にはあたらない、ということです。

結論部分から引用しておきます。
「裁判所としては、今日においては、傍聴人のメモに関し配慮を欠くに至っていることを率直に認め、今後は、傍聴人のメモを取る行為に対し配慮をすることが要請されることを認めなければならない。」
「本件措置が配慮を欠いていたことが認められるにもかかわらず、これが国家賠償法1条1項の規定にいう違法な公権力の行使に当たるとまでは、断ずることはできない。」

パターナリスティックな制約(平成20年度行政書士試験)

平成20年度行政書士試験第3問がよくわかりません。
特に、

(1) 選択肢1「文明社会の成員に対し、彼の意志に反し、正当に権力を行使しうるのは、他人に対する危害の防止を目的とする場合である。」

という箇所の、文明社会の成員って、この問題とどんな関係があるのでしょうか、

(2) 選択肢3「人の人生設計全般にわたる包括的ないし設計的な自律権の立場から、人の生と死についてのそのときどきの不可逆的な決定について、例外的に制約することは認められる。」

という考え方は、そもそも制約を認めてしまっているのではないか、だから、パターナリスティックな制約を認めない考え方と違うのではないか、と思います。

この問題は、実は質問がもっとも多い問題の一つです。この問題の解説の大筋については、こちらの解説を見ていただくとして、ご質問の箇所ですね。

(1)選択肢1について

選択肢1は、これはJSミルの自由論です。実は、彼は、この箇所のあとで、子どもや、文明自身が未成年状態にある社会の成員については例外だと言っているのです。このミルの言い方(彼自身は「遅れた社会」という言葉まで使っています)については、時代的な背景もあり、ちょっとどうかと思いますが、要するに、一定の判断能力を基準として、それに達しない場合は例外、くらいに考えればよいのではないでしょうか。

彼のいう「文明社会」じゃない社会の成員が一定の判断力を持っていないかどうかは疑問がありますが、たとえば、文字の読めない人に、土地を安く売る契約書にサインさせ契約させてしまったという事例は聞いたことがあります。土地所有概念など、そもそも社会のあり方が異なる社会に乗り込み、当時のヨーロッパ流の私的所有と契約の自由のルールですべてを支配しようとすることには無理があることは事実ではないでしょうか。(それを「遅れた」とか言っちゃうことは別として、ですが。)

なお、ミルの自由論は、法哲学のドゥーキンやハートなども依拠しているものであり、現代においてもパターナリズムの理論的骨格の一つとなっています。とはいうものの、行政書士試験受験生でミルの著作を読んだことがある人はあまりいないでしょうし、もちろん必要でもありません。本試験の場では、細かい用語ではなく、考え方の方向をとらえて巻上げれば十分です。

(2)選択肢3について

この選択肢を読む上で、注意を払いたいのは「人の人生設計全般にわたる包括的ないし設計的な自律権」と「人の生と死についてのそのときどきの不可逆的な決定」との対立関係です。

つまり、自分は将来こうなって自己実現したいという希望があり、それを実現させようと生きるという自己決定と、たとえば、失恋をしたから死にたいとか、親に怒られて自暴自棄になって死にたい、とか、そのような自己決定とを区別しているわけです。

実はこの選択肢は、かつて芦部先生の基本書が発行されるまで、司法試験受験生の間で不動の人気を誇った京大(当時)の佐藤幸治先生の教科書(佐藤幸治「憲法」青林書院)にある有名なフレーズです。もともと、佐藤先生は、基本的人権を、人が人格的に自律した存在であり続ける上で不可欠な権利と理解し、憲法13条の自己決定権をその中心的な権利と考えています。そうすると、当然、人格的自律を侵害するようなパターナリスティックな制約は許されないことになります。

しかし、佐藤先生は、「そのときそのときの自律権の行使」と「人の人生設計全般にわたる包括的ないし設計的な自律権の行使」を区別します。そして、例外的に、後者によって前者を抑止することが認められる場合があると考えるのです。

そのような例外的な場面というのは、「人格的自律そのものを回復不可能な程永続的に害する場合」そして、「長期的にみて未成年者自身の目的達成能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みのある場合」であり、このような場合には制約が認められるとしています。

このように佐藤教授は、人格的自律を重視する立場から、原則的にパターナリスティックな制約は許されないものとし、例外的に許される場合があるという考えに立っています。

選択肢においては、なんだか、「制約もいいんです」って読めそうですが、ここでの制約は、
1)人生設計全般にわたる包括的ないし設計的な自律権からのものであり、
2)そのときどきの決定についてのものであり、
3)人の生と死についての付加逆な決定についてのものであり、
4)例外的に認められるものであること
に注意してください。

つまり、長期の自己決定権を保護するために、短期の自己決定権の行使によって自己の人格の決定的な破壊を例外的に制約する、という構造になっているわけです。

問題の引用文で、発言者は、パターナリスティックな制約に反対する立場から意見を言っており、制約は原則的にゆるされず、制約はあくまでも例外なのだ、と言っています。そして、佐藤教授も、あるいは選択肢1のミルにしても、原則禁止という立場であることは選択肢からも読み取れるのではないでしょうか。

憲法29条3項の「正当な補償」について

憲法29条3項の要求する「正当な補償」とは、結局のところ完全補償なんですか?それとも相当補償なんですか?

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行政書士試験平成19年第7問の手続的デュープロセス論

行政書士試験の平成19年第7問の5つ目の選択肢がよくわかりません。
憲法31条について、「5 この条文は、ニューディール期のアメリカ連邦最高裁判所で猛威を振るった、手続的デュープロセス論を否定したものである。」という選択肢が間違いだというのですが、手続的デュープロセスとかよくわからないのです。また、それがニューディールとどういう関係があるのでしょうか。それが、一体、31条と何の関係があるのでしょうか。

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